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「呂」探索記1

 投稿者:yam  投稿日:2017年 4月16日(日)11時34分52秒
返信・引用 編集済
    青木さんの投稿以来、私が昔、「呂」の探索でひと月か二月、走り回ったことを、しきりに思い出しています。といっても、それがいつのことであったのか、もう記憶が定かでなくなっていました。
 気になるので調べてみると、それは2001年の夏であったことがわかりました。その端緒の部分を、話の種に、少し再現してみましょう。

 もう学校は定年退職して、フリーな身体になっていました。自宅もすでに木津町に移っていました。このころの日記はワリとマメにつけています。



 でも、自分で書いたものでありながら、自分でわからない記述もあります。野家というのは野家啓一さんですが、氏の何を読んでいたのか。前後を見て、これは『言語行為の現象学』(勁草書房)であることがわかりました。水本精一郎は住中21期の卒業で、上掲論文は「初期詩篇の構造(1)――伊東静雄論ノート・その三――」(「河」22号、昭49.9)で、水本さんが住高同窓会室に寄贈されたものをコピーして持っていました。

 1998年頃から私は、「伊東Note」と称する、A6版の小さいノートを作って、読んだことの書き抜きや、感想、着想などを片端から書きつける習慣をつくりました。2001年頃にはすでにそれが20数冊に達していました。
 日記に書いた、7/15には、このノートに「構想」を書きつけています。
 ノート番号は「伊東26」で、その29葉目です。
 ここでも自分でわからないことがあり、「正面図」とは何のことなのか? これはやはり野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店)を7/12に読了していて、その中にありました。自分では気がつきませんでしたが、この「正面図」という考え、見方は、私の「初期詩篇論」の書き出しの部分や、「河邉」稿の、河の流れの正面に立って見る、などに生かされているようです。
 思いつきに始まって、翌7/16から動き出すのですが、以下は稿を改めて、また投稿しましょう。


 
 

「呂」探索記

 投稿者:yam  投稿日:2017年 4月16日(日)11時21分53秒
返信・引用 編集済
   青木さんの投稿以来、私が昔、「呂」の探索でひと月か二月、走り回ったことを、しきりに思い出しています。といっても、それがいつのことであったのか、もう記憶が定かでなくなっていました。
 気になるので調べてみると、それは2001年の夏であったことがわかりました。その端緒の部分を、話の種に、少し再現してみましょう。

 もう学校は定年退職して、フリーな身体になっていました。自宅もすでに木津町に移っていました。このころの日記はワリとマメにつけています。

 でも、自分で書いたものでありながら、自分でわからない記述もあります。野家というのは野家啓一さんですが、氏の何を読んでいたのか。前後を見て、これは『言語行為の現象学』(勁草書房)であることがわかりました。水本精一郎は住中21期の卒業で、上掲論文は「初期詩篇の構造(1)――伊東静雄論ノート・その三――」(「河」22号、昭49.9)で、水本さんが住高同窓会室に寄贈されたものをコピーして持っていました。

 1998年頃から私は、「伊東Note」と称する、A6版の小さいノートを作って、読んだことの書き抜きや、感想、着想などを片端から書きつける習慣をつくりました。2001年頃にはすでにそれが20数冊に達していました。
 日記に書いた、7/15には、このノートに「構想」を書きつけています。
 ノート番号は「伊東26」で、その29葉目です。
 ここでも自分でわからないことがあり、「正面図」とは何のことなのか? これはやはり野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店)を7/12に読了していて、その中にありました。自分では気がつきませんでしたが、この「正面図」という考え、見方は、私の「初期詩篇論」の書き出しの部分や、「河邉」稿の、河の流れの正面に立って見る、などに生かされているようです。
 思いつきに始まって、翌7/16から動き出すのですが、以下は稿を改めて、また投稿しましょう。



 

寒中お見舞い申し上げます。

 投稿者:(新)  投稿日:2017年 1月17日(火)12時24分11秒
返信・引用
  yamさん&さんさん花の皆さん。
久し振りの投稿ですが、ツイッターみたいな事「つぶやきかボヤキ」しか書き込めない仕組みになった様で、場違い感でソワソワしています。書きたいことは色々ありますが、まずは寒中お見舞い申し上げます。(新)
 

哭 宇野正敏君

 投稿者:yam  投稿日:2016年 7月 7日(木)12時43分36秒
返信・引用
  2016年6月13日、君は逝った。
70年間にわたる、われらの良き友であった。
謹んで哀悼の意を表します。
 

多忙

 投稿者:yam  投稿日:2016年 2月 2日(火)13時15分20秒
返信・引用
  いま、ぼくのパソコンの中にある、燦燦会関係のファイル、フォルダーの大整理をやっています。
掲示板、旅行の写真、例の冊子「さんさん花」関係、などが主ですが、これがあくさんあって、しかも脈絡なくあちこちにちらばって、わけがわからん。
最終的に、掲示板の記事を集成した「本」を作る予定(生命のあるあいだに)。
 

賀正

 投稿者:yam  投稿日:2016年 1月 1日(金)09時56分17秒
返信・引用
  みなさん あけましておめでとうございます

ことしもどうか おたっしゃで おすごしください
 

晴耕雨読

 投稿者:yam  投稿日:2015年12月 5日(土)11時34分43秒
返信・引用
  先日、早苗さんという人から電話がかかって来て、この人は平成元年に桃谷高校から府教委事務局に転出し、その後任としてぼくが貝塚高校から移った、それに「れきぶん」(歴史文化部)の顧問をしていてそれもぼくが引き継いだ、そういうつながりの人なのですが、今68歳と云っていたから、一回り年下になる。その彼が一、二年前に脳出血で倒れて、現在苦しい苦しいリハビリ中。そんな昔や今のつもる話を、1時間ほどもやりとりした。詳細は書いても仕方がないので略すが、左半身が一時まったくきかなくなり、今ようやく杖をついてそろそろ歩けるようになったが、「山本さん、あのなァ、立ちションベンが出来へんのやで」と歎いておった。以てその苦衷を察すべし。結論は、動けるうちは、身体を動かし、口を動かし、手足を動かし、頭を動かして、もうすこしの間、生きられるだけがんばって生きよう、ということになった。――とは云うものの、今不意に思い出したのだが、「晴耕雨読」とか「明窓浄机」とかいう言葉がある。しかしながらこちらは、ポカポカといい天気であっても庭の草むしりひとしないし、窓は明るいが机の上はモノの山、本や文具や大小の紙切れの書き散らしやら、そうして同じ状態がフトンの枕元に再現している。ワシが死んだら、子供たちよ、勝手に始末せよ、と、もうやけくそなのです。(新)さんよ、どうか11回目の入院にならぬことを祈る。「終焉」話のネタは今ないが、またぼちぼち書くつもりです。

 

追伸と蛇足「小生の身辺はガラクタの山

 投稿者:(新)  投稿日:2015年11月29日(日)05時57分52秒
返信・引用 編集済
  文さんが静かな声で「お父さん、お鎮まりなさいませ」といった。
幸田露伴はすごいが、文さんもすごい!それにyamさん、貴兄も相当すごいです。

  聖路加病院の設計に携わっていた頃、アノ日野原先生(当時は看護大学学長)の学長室に設計内容の説明に伺ったことがありました。壁側に寄せた執務デスクや、大きな会議テーブルの上まで、書籍や書類が所狭しとばかりに山積。それらに埋もれておられた先生の、小生に対する最初の一声は「繁雑の中にいて驚かれたでしょう。これでも私には何がどこにあるか全部分っているのですよ」やはり新病院の竣工後、topにカンバックされましたが…。

 今、小生の身辺はガラクタの山(何でもとっておく貧乏性?)いつも必要なモノ探しに苦労しています。せめて、自分の部屋だけでも必要最小限の書物とイーゼルなどの画材だけにしておきたいと思っていますが「柵」が…。

 せめて後に残される妻と娘の為に相続的明細書の更新だけは毎年細々と行ってきましたが、愛用のワープロがバックアップしないまま突然自爆的破壊。今更ワードのお勉強は何かと手間取りそうで…、でも待てよ、俺が先に往くとは限らないのだ? 何という罰当たりなことを…

  こういう時、人はケ・セラ・セラというが、明日(11月30日)は術後2度目の経過観察と診断の日。   10回目の再入院は?小生にも後顧の憂いあり。まだまだ恍惚の世界に行ってしまえる身分ではない。

   先般、宇野さんもよく頑張っておられましたよ。yamさん、お互い今少し頑張りましょう!(新)

 

ありがとう

 投稿者:yam  投稿日:2015年11月27日(金)16時01分38秒
返信・引用
  (新)さん。
拙文、読んでいただいて、恐縮。
幸田露伴、夏目漱石、正岡子規。みな、同い年なんですね。
昔の人はすごかった。幸田文さんも、すごい。

怪我のその後のこと。1週間で、ガーゼも絆創膏も取れました。
意外に早かった。救急の外科の先生が名医だったのだろう。
「カタが残るかもしれませんよ」と云われ、「これから嫁に行くわけでなし、べつにかまいません」と返事したのだが、眉間のところを5針、上唇を3針縫ったそうです。
あやうく「丹下左膳」になるところだった、と云って、しかし丹下左膳など、いまどきの若い者は知らないだろうなあ。
一気に寒くなりました。お互い、カラダを大切にしよう。
 

「露伴の終焉」

 投稿者:(新)  投稿日:2015年11月25日(水)15時22分17秒
返信・引用 編集済
  yamさん;お久し振りです。
「露伴の終焉」読ませて頂きました。

伝通院は小生の勤務していた会社から徒歩何分という処にあり、ちょくちょく出掛けたことを思い出します。

昔、某大学付属医療センターの設計に関わり、その竣工式典に出席したことがありました。その折の来賓に当時医師会会長の武見太郎先生も列席されていました。威風堂々たる大きなお顔でしたが,挨拶に壇上に向かわれた時、椅子から立ち上がられましても身の丈変わらぬ体躯に少々驚かされました。しかし、露伴の臨床医であられたのかと、今、懐かしく臨場感?を引き摺っております……。

何はともあれ《凄い文章ですねぇ》 (新)
 

近況06 露伴の終焉

 投稿者:yam  投稿日:2015年 9月21日(月)13時09分44秒
返信・引用
                         露伴の終焉

 昭和二十二年。
 七月十一日朝、祖父の部屋へ掃除に行った玉子が、「おじいちゃん血だらけ」と云って来た。なるほど父は、頬・鬚・枕・シーツと点々と綴る赤の中に、しかし平常な顔色でいた。
出血はおそらく前夜半、しかし露伴は自身の出血をよく意識せず、半醒半睡の間の出来事であったらしい。露伴は腹を立てていた。
その日の昼過ぎ、ふと不安になって文子が見ると、露伴は小さい血の塊を吐き出し、続いて泡立った鮮血を口から押し出した。
 「と、顔全体に見る見る充血して来、瞼は怒張し、苦しみの筋は走り、咳のような嚏のような声と一緒に、ぬらぬらとちぎれない物が出た。父は左手を染めて、口中を盛んに掻きさぐった。漸う私は点火されたようになり、父の手を払いのけるや我が手にそのいやな物を取りのけようとし、それはべたべたと方々へへばりついた。口の中には血のりの紐が垂れ下ってい、はじめて出血は右上奥歯からであると知った」
 出血はその後も間歇的に何度も続いた。
 「痛みも無くがぷっがぷっと出る血は恐ろしいものであった。室はなまぐさく、私はからえづきが上って来、せつなかった。大ぶ疲れたらしく、こめかみに汗が浮き、肋は上下している。ふと親一人子一人という感情が走って、突然、「おとうさん死にますか」と訊いた。「そりゃ死ぬさ」と変に自信のあるような云いかたをし、「心配か」と笑った」
 暑い日であった。知らせを受けた小林は「なんだ歯か」と乱暴に応えた。武見医師に往診を請うと武見は、歯の出血だから心配なんだ、と云った。武見は夜来ていろいろ注射をして帰った。

 露伴の蝸牛庵は、焼ける前は伝通院の近くにあった。昭和十九年十一月の空襲の時、あたりは爆撃の轟音にさらされ、家は揺れた。露伴は、すでに書物を疎開して荒涼たる部屋に、むきだしに一人すわっていた。文子はせめて父を押入にでも入れようとして争った。
 「ど、どっというような音響が起り、あたりは揺れた。防護団が出動々々と叫んでいる。不安と恐怖でこらえられず、「おとうさん」と呼んだ。咎めが矢のように飛んで、「馬鹿め、そんな処にいて。云っておいたじゃないか、どこへでも行ってろ。」張りつめた神経は自ら支えることを失って、「このさなかにおとうさんのそばを離れられない、どこへ行くのもいやです、行きたかありません。」一トたびことばを返しては、われからずんと据わるものがあった。「行きたいんじゃない、行けと云うのだ。」「いやです。」「強情っ張りな、貴様がそこにいて何の足しになる。」「どうでもいいんです、おとうさんが殺されるなら文子も一緒の方がいいんです、どこの子だって親と一緒にいたいんです。」「いかん、許さん、一と二は違う、粗末は許さん。」「いいえ大事だからです。」「それが違う、おれが死んだら死んだとだけ思え、念仏一遍それで終る。」「いやです、そんなの文子できません。」「できなくてもそうしかならない。」「では、おとうさんは文子の死ぬのを見ていられますか。」片明りに見える父の顔は、ちょっと崩れて云った、――「かまわん、それだけのことさ。」」
 蝸牛庵はこの時には焼けず、二十年三月の大空襲にも焼けず、五月二十五日の空襲で焼けた。
 一家は市川市菅野に移った。

 七月二十二日、文子が岩波の店に来て小林に、父の様子がおかしいから来て見よという。二人で電車で菅野へ行く。
 露伴は確かに数日前と違っていた。生き生きしたところがなくなり、言葉ものろのろしている。小林を見る目の色も輝きがなかった。家人が心配した通り露伴は急激に衰えていた。
 夜、武見医師が来て、大きな顔から汗を流して、露伴の細い静脈を探りながらたくさんの注射をした。肺炎を起こしていて、熱があり、苦しそうだった。

 二十三日は露伴の満八十歳の誕生日であった。家の人たちは病気を気にしながらも、お頭つきの魚で祝った。
 二十四日、小林は子供を連れて、柏の武見医師を迎えて、菅野に行く。尭彦という子の名前は露伴につけてもらったのである。
 二十五日と二十六日も武見医師が往診したが、露伴は食欲がまるでなく、みるみる衰えてゆくようであった。

 二十七日。小林は予定していた信州行を中止し、そのかわり子供を海水浴につれて行ってやった。菅野へは行かなかった。
 文子は、宵のうちは無性に眠くて、居眠りばかりしていた。父はぽっかりと目をあけていた。ゲッセマネの園。父娘は語らいをする。小石川の旧居跡に建てかけの家の話。芭蕉の七部集の評釈のこと。
 露伴は「仰臥し、左の掌を上にして額に当て、右手は私の裸の右腕にかけ、「いいかい」と云った。つめたい手であった。よく理解できなくて黙っていると、重ねて「おまえはいいかい」と訊かれた。「はい、よろしゅうございます」と答えた。あの時から私に父の一部分は移され、整えられてあったように思う。うそでなく、よしという心はすでにもっていた。手の平と一緒にうなずいて、「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない、穏やかな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」と一ト言、別れすらが終ったのであった」

 二十八日。小林は武見医師を伴って菅野に行く。「武見氏は、先生は最早絶望の状態にあること、できるだけのことはするが、恐らく再起は不能であろう、時間の問題であるから、もし、いう必要があるならば家の人にいってもらいたい、といった」。小林は「最早二人の様子によって十分察していると思われる文子さんにむかって、暗闇の中で、先生の絶望であることを話した。なにかきくことがあれば今夜が機会だと思うと武見氏の言葉を伝えたが、文子さんは何もきかなくてよいといった。昨夜、先生の意識のはっきりしたときに、この親子は、すでに別れの言葉に近い話をしたのであった」

 二十九日の昼前に武見医師が来て、またたくさんの注射をして帰っていった。
 夜中、十二時になって文子と小林が枕元に坐った。
 突然露伴の身体が激しくふるえ出した。「見ると顔がはげしく痙攣している。長いというよりも角ばった先生の顔が、右の方へひきつれていびつになった。私は先生の名をよび、肩のあたりを押えた。文子さんがなにか異様な声を発した」
 午前二時までにこの痙攣は四度び襲った。

 明けて三十日も、太陽はぎらぎらと照りつけていた。朝方、柳田泉が来た。ついで武見医師が来た。小林は昨夜の痙攣のことを話した。医師はまたおびただしい注射をした。帰ろうとする医師をつかまえて、小林は話しかけた。
 「私はすでに二日ここにいるので、店の仕事や、約束のことなどが気になっていた。そのことを武見氏に話して、私が一緒の自動車で東京へ行っても大丈夫だろうかと質したときに、武見氏が何か返事をしたが、そのとき、先生の室の縁側に坐っていた柳田氏が大きな声で、「先生の色が変った」といった。そのあとの言葉は異様であり、その意味はよくわからなかった。
 玄関にいたものは、一度先生の室へいった。武見氏も靴をぬぎすて、鞄をかかえて室へ戻った。わずか五、六分前までの先生の赤い顔色は一変して、蒼黄ろい面貌になっていた。
 武見氏は聴診器を先生の胸にあて、脈をとっている。誰も一語も発しない。この家にいる人はすべて室に集まっていた。
武見氏の手が先生の手から離れ聴診器がはずされた。そして型通りの挨拶が文子さんにむかってされた。
 九時十五分であった。
 文子さんが静かな声で「お父さん、お鎮まりなさいませ」といった」。

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この文章で、「文子」は幸田露伴の娘・文(あや)、「玉子」は文子の娘で露伴の孫、「小林」は当時岩波書店の支配人であった小林勇、「武見医師」は露伴の主治医であった武見太郎。材料は、幸田文「終焉」(講談社文芸文庫『ちぎれ雲』所収)、青木玉「終り」(講談社文庫『小石川の家』所収)、および小林勇『蝸牛庵訪問記』(講談社文芸文庫)から、わたしが勝手に抜き出して勝手に並べたものです。そのため、主語が入り乱れていますが、故意にそのままとしました。よろしくご判読ください。

[追記] 「露伴の終焉」はあまりにも近々と、死に接近しすぎているので、出すのをためらっていました。ほかにもどこにも外へは出していません。露伴の死を、前より少しは近々と見ることができるようになったと思っています。そんなわけで、書いてからだいぶん後になってからの「追記」です。

幸田文の文章を中心に組み立てたが、実は、使っていない大きな資料がある。
その一は、幸田文「菅野の記」(新潮文庫『父・こんなこと』所収)
その二は、塩田賛『幸田露伴』全4冊、中公文庫
幸田文には、本文に記した「終焉」のほかに、「葬送の記」(上掲新潮文庫)、「雑記」(上掲講談社文芸文庫)がある。すべて岩波書店『幸田文全集第一巻』所収。
未使用の資料二点は、実は「近況06」を書いた後で、古書を探して入手したものだ。分量も多く、記述も詳しい。これを入れて増補しようとしたが、本文が3倍くりあになってしまう。出来上がっていた短いほうも、これはこれで言い尽せていると思ったので、あえて手を付けなかった。これがそれです。
 

新年のご挨拶

 投稿者:yam  投稿日:2015年 1月 4日(日)17時27分16秒
返信・引用
  みなさま
 あけまして
  おめでとう
   ございます
 

お久しぶり

 投稿者:Charles  投稿日:2014年 9月23日(火)15時29分40秒
返信・引用
  yamさん、こんな会があるとはしらなかった。これからちょくちょくのぞかしてもらいます。ボクはブグログの
Pubooに電子書籍を出しています。
 

はてな

 投稿者:yam  投稿日:2014年 9月 9日(火)15時11分59秒
返信・引用
  開くのも何か月ぶりか。
その間も有為転変あり。諸行無常あり。
さびしいね。
掲示板を維持するために書き込み。
 

hatena

 投稿者:yam  投稿日:2014年 3月 4日(火)11時34分3秒
返信・引用
  何か書き込まないと消されてしまう
 

餅花のこと、その他

 投稿者:(皓)  投稿日:2013年 2月 7日(木)12時31分17秒
返信・引用
  探して見ていただき、感激です。
幸せだなァ、ぼかァ、なんというセリフを、知っている人がまだいるでしょうか。

去年、ぼくとまったく同じ時期に脳梗塞で入院した友人のことは話したかな。彼が、調子がよくないと云って、弱気になっている。右半身の麻痺が少し残って、歩くのがつらい、すぐに足が痛くなる。彼はまだがんばって週一回、専門学校の講師に寺田町まで行っているのだが、黒板に字が書けない、ぐにゃぐにゃになる、という。
そうして最近、ぎっくり腰をやったという。かれは前から軽い脊柱管狭窄症があったから、それが悪化したのかもしれない。がたがたや、T(やはり同年の友人で昨年死んだ)が、こっちへ来いとひっぱってるのか、などとおばあさんみたいなことを云う。そんな人間ではなかった。
昨夜NHKのためしてガッテンで、腰痛の話をしていた。そういう話はすべて見る。知識は増えるが腰痛はなおらない。そんなにかんたんになおって、この国に何百万人も腰痛で悩んでいる人がいるわけがない。
燦燦会諸兄姉に無関係の人間の話をしたが、お許しあれ。すべて、ひとごとではない、思いが強くなる一方だからです。
まだ寒い。庭木の芽がかすかにふくらんだような気がするが、まだ寒い。みなさん、ご用心を。
 

餅花

 投稿者:(皓)  投稿日:2013年 2月 3日(日)11時08分25秒
返信・引用
  2月1日、毎年「ことしこそ」と思いながら、なんやかんやでよう行かなかった相楽神社の餅花に、ついに、行ってきました。
それだけのことですが、見てください。
 

元気出そ!

 投稿者:(皓)  投稿日:2013年 1月24日(木)14時10分9秒
返信・引用 編集済
  宇野さんが元気で小春日和でリハビリにがんばっている様子、嬉しく拝見しました。
新さん、報告ありがとう。
新聞をみると、脳梗塞と肺炎が流行っている。60歳台で逝く人もあるが、90歳台でしゃんとしている人もいる。
ぼくの肺炎は、まあまあ、治ったのらしい。先日診てもらいに病院に行ったが、諸検査結果は良好、との診断だった。でも老人の肺炎はこわい、ということが、あとでジワジワと来た。
ぼくの教え子(?)に、傘寿を迎えたご婦人がおられるのだが、先ごろ久しぶりにメールをくれて、先生、わたしたちがんばって、米寿まで行きましょうよ、と云ってくれた。
米寿かァ。米寿なァ。まあ、無理だわな。
主治医は、暖かくなったら、また運動を始めなさい、と云ってくれる。歩かないから、肉がやせて、脚だか腕だかわからないくらい、細くなっている。体重はどうしても45キロを越さない。

宇野さん。リハビリは、ぼくの知っている人を見ても、たしかにつらそうです。でも、サボるとかならずさぼった分だけ見返りが来るし、しっかり励めばそれだけ恵みがあたえられる、そういうもののようです。くそまじめに、しっかり励んでくださることを祈っています。

新さん。「目は翳み、耳は遠のき、歯と腰はがたがた、気力も失せつつあり」
ぼくはこのごろ、何も考えず何もわからずに、ただぼーっとテレビを見ていることがある。やっぱり「目は翳み、耳は遠のき」だから、画面の中で何が起こっているのかちっともわからない。呆然と見ている。画面がぼやけて二重になって見にくい。音声がくぐもって聞き取りにくい。さいきん字幕がふえて喜んでいたのだけれども、その字幕の文字が見えにくくなった。困ったものです。こんなことを云っても何の慰めにもなりませんが。

投稿中の「近況」について、じつはすでに「露伴の終焉」というのを書き上げて、置いてあるのですが、これがえらく長いので躊躇しています。露伴のような、剛毅な人でも、間際には、精神はしっかりして少しも乱れるところがなかったけれども、肉体の衰えには我慢がならず、業を煮やして家人に当たり散らしたりしていたようです。
 

だるまさんがころんだ 近況07

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年12月23日(日)14時50分47秒
返信・引用
   退院後、まあまあ変わりなく無事に過ごしています。
 「近況」は、「06 露伴の終焉」というのを先に書いたのですが、あんまり病気とかそういうのばかり続くので、飛ばして、07を先に載せます。


 福井県に、M君という友人がいる。
 子供のころ、少年雑誌などを通じて、「文通」ということが流行った。ぼくも何人かの「友達」を作った。そういう交友は半年か一年で、どちらからともなく消滅してしまうものだが、ただひとり、今だに続いているのがあって、それがM君である。
 さすがに社会的にも家庭的にも多忙な壮年時代には、年に一度の年賀状の交換だけに終っていたが、ともかくそれでも通交はずっと続いていた。そうして二十年、三十年がたち、四十年、五十年がたった。
 たぶん、年賀状にメール・アドレスを記したことがきっかけになったのだったろう。ある年からメール交換がはじまり、急速に頻繁になった。彼は今は東京に居を移しているが、福井県の家も残してある。そうして自作の短歌や小文などを送って来る。それぞれにのっぴきならぬ気がかりをかかえながら、嘆いてもはじまらないから、ゆったりと構えてのんきなバカ話をしている。その中に「だるまさんがころんだ」という一文があって、これが俄然、ぼくの懐旧の念を刺激した。

「だるまさんがころんだ」をする猫
 犬は飼っていた。でも猫を飼った事がない。昔は商売柄[註:M君の家業は呉服屋]生き物を飼うのは不可能でもあった。スマホでユーチュブをのぞくと猫の動画が人気でこの振り向き動作ストップシーンが沢山掲載されている。この達磨さんが転んだは10文字なので大人が物の数を十單位に数える時にも便利な言葉だ。でも何で達磨さんが転ぶのだろう。疑問が発生する。……

 ぼくはすぐに返事を書いた。

 大阪では、ぼくたちは、ダルマサンガコロンダ、とは云わなかった。何と云って数えるかというと、ボンサンガヘヲコイタ、と云うのだ。越前にはこの唱え方は伝わっていないだろうか。
これは物を数えるだけでなく、何かを決めるときにも唱える。ヘ、ヲ、コ、イ、タ、で当たったモノが気に入らないと、さらに続けて、プットコイテプットコイテプップップッ、と続け、さいごのプッの結果は、もう受け入れるしかない。まさにカミサマノイウトオリ、であって、これは一種、神占でもあるのだ。

 このあと、思い出はあとを引いて、ぼくは、い、ろ、は、に、ほ、へ、と、ち、り、ぬすっと! る、を、わ、か、よ、たんてい! という、タンテイゴッコの話を書いている。
 福井県でもボンサンガヘヲコイタと云うのかどうか、彼の返事には書かれていないので、わからない。

 付記: たまたま、松田道雄『明治大正 京都追憶』(岩波同時代ライブラリー)という古い本を読んでいて、こんな記述をみつけた。子供たちが遊んでいて、誰かがスカシッ屁を放ったとき、

 「今のへは誰がこいた、こいたやつにぷっといけ、いのいの島のちょったら兵衛が、こおいた」
と、ひとりひとり頭数を数えながらうたって、さいごのこおいたの「た」にあたったものが、犯人にされる。

 大阪には「ボンサンガ……」はあるがこれをスカシッ屁の犯人指定に適用する慣習はなかったように思う。
 盗人と探偵についても「巡査と泥棒」として書かれているが、そのときの分け方は

 こどもを数人横にならべて、数をかぞえられる大きい子が、はしから一、二、三と呼んでいく。みんなが大きい声で合唱する。十番目にあたったものが盗賊になり、十三番目のものが巡査になる。

 大阪での「イロハニホヘト……」のような唱え言葉はなかったようだ。京都でなぜ「十番目」と「十三番目」かは明記されていないが、こういうものが無関係とは思えない。(今ふと思いついたのだが、「十」は「トオ」で盗賊、「十三」は「ジュウサン」で巡査ン、ではないかな?)
 ちなみに松田さんのこの本はとてもおもしろい。中に「京女の立小便」といエピソードもあるのだが、ここでは略す。
 

簡略に

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年12月 5日(水)11時54分6秒
返信・引用
  11月2日に肺炎で入院、ひと月病院暮しをして、今月2日に退院しました。一番最近の「近況」です。こわごわ、という思いで「さんさん花」を開きました。諸兄姉には恙無しや?  

近況/読書

 投稿者:(つね)  投稿日:2012年11月23日(金)19時43分53秒
返信・引用
  リハビリも、未だ足がフラフラしていて、今ひとつですが、先日デパートへ行って、意外な事に、リハビリに適した処だと気付きました。トイレが各階に有る、休憩する椅子も各階に有り、自動販売機(飲み物)も同様。喫茶店も一回おきに有り、大型の本屋迄有る。もしも買い物が有るならば、デパートで半日過ごすリハビリも又一興。

読書に関しては、(皓)さんのような硬いのは、未だ駄目なので、もっぱら柔らかい本に限って読んでいる。
今は式亭三馬の『浮世風呂』。このあと山東京伝の黄表紙を数編。西鶴の世話物2/3編。(好色物/一代男、一代女、五人女等は今の自分には少々重い)。この後佐々木邦全集の中から数編のユーモア小説を考えている。
少し色を付けるとすれば、バルザックの『風流滑稽譚』、石坂洋次郎の『石中先生行状記』位か。
 

佐多稲子『夏の栞』 近況05

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年10月21日(日)15時36分35秒
返信・引用
   副題に、――中野重治におくる――とあるように、中野に小説家として見出された佐多稲子が、五十年にわたる彼との緊密な交友、とりわけ彼の入院から、1979年8月の臨終にいたるまでの事実を、心をこめて描いた作品である。
 その文章は、目が詰んでいて、水を含んだように重い。文庫の解説者は「すべての文章が、こういう息苦しくなるような微妙さのあいまを縫うようにわたってゆく」と書いている。
 中野重治がなくなる三週間ほど前、病床の中野の手足が冷たいというので中野夫人、原泉が佐多稲子に、ふれてみるよう促す。佐多はためらいつつも掛布の下に手を差し入れる。細く冷たい脚にさわった瞬間、眠っているはずの中野が言う。
 「稲子さんに、足を撫でてもらっては、罰があたるね」
 それは、冗談も軽くふくませた調子に聞え、私のそこにいるのをはじめから知っている言い方に聞えた。原さんが敏感にそれをとらえて、押えつけた強いひびきで云った。
 「あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう」
 中野は目を閉じたままである。私はもう自分の手を引いていた。
 どんな解説をつけても下卑てくるような気がするので、ぼくは何も書けない。押えつけた強いひびき、というのがこわい、と解説者は書いている。
 中野重治の人と思想と作品については、早くから知っていた。その夫人が原泉さんと云って演劇人であることは、あとで知った。原泉というのはいい名だなと思った。テレビで原泉さんの舞台姿を見たのはもっと後で、たしか老女の役だったが、その演技は凛として張りつめていた。

 もうひとつのエピソード。
 その年の正月、私たちは中野の喜寿を祝った。中野の誕生日が一九〇二年一月二十五日だから、一九七九年一月のその年、中野は七十七歳になる。
 私たち、というのは稲子と、小田切秀雄、国分一太郎の三人、それに当日は稲子の子息健造も加わった。このとき稲子は、九年前に中野が云った言葉を、思わず健造に漏らしてしまう。「中野さんはね、大分前だけど、俺は死ぬときも、しまった、と云うのかなって云ったのよ」
 この言葉の背景には、1954年の新日本文学会編集長花田清輝の更迭とその地位の中野への交代、それに直接かかわる中野の言動があるのだが、複雑な事態を簡単には要約できない。解説者は「中野は1954年に自分がとったあの言動に関して「しまった」と思っていたのだ」と解き明かしている。解説者はさらに、このことに関して中野が自覚していたであろう「弱さ」や「ダメ」さに、思いをおよぼして、「是非を裁けば非であり、言い訳のしようはなかっただろう。しかし、それを承知で是非を問うのとは別の視線で、彼の生そのものと識別不能になっている、非としての自分を眺めてくれる知己を中野は佐多にもとめていたのではなかったか」
 解説としてこれ以上は望めないだろう。ぼくにも生涯で五回ぐらい、「しまった」がある。しかしぼくの「非」はぼくの「生そのものと識別不能」ではなくて、「とりかえしつきかない」という決定的な真実から逃れられないから、ぼくは死ぬときにもたぶん「しまった」とは云えずに死ぬだろう。

 佐多稲子は長生きし、80歳台に入って何度も大病を患った後、1998年10月12日、94歳で死去した。
 前に書いたように、中野重治は、この喜寿の年、1979年8月24日に死んだ。7月に入院した時にはすでに胆嚢癌が肝臓に転移していて、手術不可能、余命ひと月、長くて3月と云われた。
 しかし中野より前に、古くは室生犀星、堀辰雄から、中野鈴子、壺井栄、福永武彦、中島健蔵、西沢隆二(ぬやま・ひろし)、窪川鶴次郎ら、知友関係者の多くが死去している。中野重治は喜寿を越えて生きた。彼も長生きをしたのである。
 

恍惚?

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年10月20日(土)17時30分59秒
返信・引用
  新さん
老害の意味、了解しました。
ぼくの歯科医の先生もお年寄りですが、しっかりしてはります。
このごろまた、寝てばかりなので、枕元に書物やら雑誌やら新聞やら、ノートやら紙切れやら、うずたかく積み重なって、まあ、きたないこと。これも老害です。
で、最後の「惚けかぁ~」は、これ、「のろけ」でよろしいのでしょうか。(ぼけ、ですよね。なんで、同じ文字を使うんだろう)
近日中に「近況」最新版(05)を出します。
 

老害?

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年10月11日(木)15時00分25秒
返信・引用
  (新)さんもあちこち傷んで来てますねえ。
歯・目・耳、これらは誰も同様なのではないか。
ぼくも、歯はがんばってきたけれども、今度行ったら、ついに抜くことになりました。
目は、テレビの字幕が急にたくさん出るようになって喜んでいたのに、その字幕が読めなくなって、また腹を立てている。
耳はまったくご同様。テレビも電話も、ひょっとしたら家内の声も、奥の方でもごもご云って、はっきり聞き取れない。
加えて咽喉がおかしい。声が出ないし、ものが飲みこみにくくなった。
耳鼻咽喉科とはよく云ったものですね。昔は子供が中耳炎とかで行くところだったのに。
数年前、味覚障害が起こった。甘い、鹹いがよくわからない。これも耳鼻科だそうで、耳鼻科で亜鉛の入った薬をもらいました。
さて、各疾患と上手に付き合うには?  ??
どうか肝臓検査の結果が良からんことを。
 

転倒 近況04

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年10月 8日(月)11時38分31秒
返信・引用 編集済
   だんだんしんどい話になりますが、がまんして。

          ------------------------------------

 夜中、夢で、背中や胸板を強く圧迫されて痛みをおぼえて目が覚めた。トイレへ行っておこうと思って立ち上がった、ところまで憶えていて、そのあとの記憶がない。不意に頭をガンガンと殴られたような衝撃で、気がついた。するとトイレのドアの前でひっくり返っていた。だから、その間、廊下は、眠りながら歩いていたのらしい。ドアにぶつかって、糸の切れたマリオネットのようにグニャグニャと崩折れたのであろう。肩やあばら骨や、その時の打ち身だろうか、あちこちが痛いと思いつつ、放っておいたが、打ち身にしてはなかなか痛みが引かない。するともしかして骨に小さなひびが入っているかもしれない。それならひと月たたないと治らない。そしてひと月たてば治る。先生に話すと、眠剤がよく効いていたのだろうという。気をつけないといけない。

 余談だが、もしトイレの前で転倒せずに廊下を歩き続けて、端まで行って、玄関の堅い三和土に頭から転落して、打ち所が悪くてそれきりに、ということも、ありえない話ではない。ウェンセスラウ・デ・モラエスは土間の三和土に身を投げ出したようにして死んでいたことを思い出す。モラエスが徳島の陋屋で死んだのは1929年、昭和4年6月30日である。すでにいくつもの病を抱え、籐椅子に座ったままで、歩行もままならなかった。大小便もたれ流しであった。夜半、モラエスの夢幻のうちに、ヨネが訪れた。

 二本のアグワルデンチを、深夜ひとりラッパ飲みしているのを、モラエスは気づこうともせず、伊賀町の茅屋でヨネを追慕している現実を忘れ、ひたすら神戸市加納町の領事私邸を錯覚した。

   ――のどが、のどがヒリヒリする……、お水が欲しいわ――
   おヨネがふわっと立ち上った。
   ――足もとが、ひどくふらついているよ。危いね、ヨネは……。どれわしが水を……
   モラエスは立ち上った。
   大便の山を踏んだ。
   おヨネの着物の裾を踏んだ、と彼は思ったにちがいない。
   モラエスは水を汲みに行く……。薬罐をぶらさげて……。
   神戸加納町の家は、居間から台所への廊下が長かった。よたよた、とモラエスは歩む。
   伊賀町の方丈には廊下はない。部屋を出るとすぐ三和土の土間であった。
   モラエスは落ちた。(佃實夫『わがモラエス伝』)

 次は幸田露伴が廊下で倒れた話。
 昭和18年1月15日。

   夜中に起きて便所に行こうとしたが、間に合わず、汚した。先生は自分のそういうことに
   ひどく腹をたてて、廊下に自分で倒れてあばれたという。(小林勇『蝸牛庵訪問記』)

 このとき露伴は数えで七十七歳。誕生日は7月23日であるが、暑いからというので、明治節の11月3日に大河内正敏邸で喜寿の祝いをやった。
 

アブレーション 近況03

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 9月29日(土)12時35分53秒
返信・引用 編集済
   不整脈はずいぶん前からあったのだが、まだ身体が元気な頃で、放っていた。2007年から08年にかけて入院したとき、入院の動機が原因不明の下腹部激痛でそのまま依然不明だったこともあり、この機会に身体中の悪いところを全部、見てみようといことになった。不整脈については退院後も同じ病院の循環器科で診てもらい、やがて「発作性心房細動」という名前がついた。身が引き締まった。
 不整脈を抑え脈を整える薬を何種類か変えて試みたが、不整脈はきれいには取れなかった。薬でやるにはここまでで限界、次の順序として、心房カテーテル焼灼術というのをやりましょう、と先生は宣告した。アブレーションと称されるこの方法は、簡単に云うと、大腿の付け根や頸部から数本のカテーテルを心臓まで入れ、不整脈の信号を出す悪者の細胞の巣の周囲を焼いて、信号が伝わらないようにする、というものである。いわば、手さぐりで心臓の内壁にヤイトをすえるようなものだ。医学というものはおそろしいことを考え出すのだなあと、ほとんど唖然としたが、有無なく、京都駅近くの武田病院というところに入院した。入院の日は妻のほかに娘や孫までつながってついて来て、大変であった。
 施術そのものはしかし、手術室に入って何かごちゃごちゃしていたと思う間もなくすっと麻酔に入ってしまって、次に気がついたときには病室のベッドで仰向いていた。所要時間は3時間だったという。翌々日に退院した。
 一度のアブレーションで成功率は8割ほどだという。その後今まで不整脈は出ていないので、一応成功ということになるが、本当に成功したのか、本当に喜んでよいのか、いまだに信じられない。心臓がよくなれば身体も元気になると、思うのだが元気になった気もしない。どうなったのだろう。
 

露伴の老い 近況02

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 9月23日(日)16時03分50秒
返信・引用 編集済
   幸田文『ちぎれ雲』(講談社文芸文庫)を読んだ。冒頭の「雑記」「終焉」は、父・露伴の老いの日常を叙して、絶品。露伴は「古稀の頃から「年毎に老いを覚えて」と云っていたが、喜寿の頃には「月毎に磨り減って来る」と云った」。
 小林勇『蝸牛庵訪問記』(講談社文芸文庫)を読む。これは何読目だろう。何度読んでもおもしろい。年毎に章を立て、そのはじめに露伴の年齢が記される。年齢は数え年である。「昭和十九年。先生は七十八歳である」ぼくも数えで今年七十八歳である。露伴は昭和二十二年に死ぬ。余命あと三年である。どきどきする。

 露伴に「幻談」という、こわい話がある。露伴に云わせると、あれは「土左衛門が釣竿をもっていたというだけの話だ」というのだが、しかし読んでいるとサブイボが立つほど、こわい。

 岩波文庫で露伴随筆集が二冊本で出ている。そのうち『言語篇』を読んだ。もう一冊の『考証篇』は手強いので、そっと置いてある。
 『言語篇』のうちの「音幻論」は、終戦の年、信州の疎開先の貧屋で口述筆記したものだった。このあとさらに露伴は、市川市菅野に移って、「芭蕉七部集」俳諧の部の評釈の口述を完成した。
 

「ぼちぼちである」ということについて 近況01

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 9月19日(水)10時47分3秒
返信・引用 編集済
   電話やメールや書信で友人知人と話をする中で、「最近体調はどうですか」ということを必ず聞き合うようになった。達者ならそんなことを聞かない。誰も多少なりと身体が傷みはじめているので、そういう挨拶になる。「どうですか」と聞かれると、「まあ、ぼちぼちやなあ」「良くもなし悪くもなし」「寝たきりというわけではないが」「どっちみち、あちこち故障が出るわなあ」と、考えてみれば返事になっていない返事で、それで納得したことにしてしまう。「どちらへ」「ちょとそこまで」みたいなものだ。

 やりとりができる程度には互いに無事なのだが、しかし万全というわけではない。近年の弱りようなど、なんとなく感じているだけに、「ぼちぼち」ではやはり不安を残す。もう少し実のある話をしてもよいのだが、と考えはじめた。
 もし仮に自分の年譜を書くとして、
   平成二十四年。七十七歳。この年、体調は良くも悪くもなく、まあぼちぼちであった。
というのは、ちょっとどうだろうか。やはり、
   年某月、入院。はじめて腎不全と診断される。某月、退院。徐々に体調回復し画筆をとる。
   某月、ひどい貧血と出血のため入院。心臓の異常を発見される。
 のように書くのが、書き方としては良いのではないか。

 これが「発心の記」です。以下、項を立てて少しずつ、病気の話だけではない、近況を書きます。
 

祝!

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 9月17日(月)16時36分40秒
返信・引用
  1.
まずは、(彡)さんの退院、おめでとう!
ぼくたちの扇子がよく効いたのかな!?

2.(つね)さん。
先日(新)さんに電話し、そのとき、(つね)さんは元気になって本宅やら別宅やらを走り回っているよ、との話を聞いて、まずは安心しました。
僕も体重の減少は気になっています。健康時52-53㎏、いま46㎏。
水気がなくなるからねえ。

3.
この欄もすぐご無沙汰になってしまうので、いま原稿を書き溜めています。
明日から投稿します。
「ほぼ週刊」をめざします。
 

近況

 投稿者:(つね)  投稿日:2012年 8月30日(木)15時40分41秒
返信・引用
  3月に肺炎で緊急入院してから、6ヶ月にならんとしていますが、体調は今ひとつ。主たる原因の一つは体重。
入院前、52キログラム程あった体重が現在43キロ。9キロ程やせた勘定です。医者は "おいしいもの、栄養価の高い物を好きなだけどんどん食べなさい." と、のたまうが、所謂消耗性疾患では消化能力も落ちているので、そうは食べれない。せめて一日3食を4食/5食にする位が精一杯。と云ったところが小生の近況です。
趣味の方は、幸い、一昨年に囲碁六段、将棋五段をいただき、ピアノの方は、バッハの平均率、イギリス組曲などをマスターすべくやっていますが、三歩進んで二歩下がる、時には四歩下がると云った現状です。
カメラの方は当分開店休業。時代小説、数学はぼちぼち。男声合唱/混声合唱は現状維持。
となると、何時に成ったらまともに趣味に取り組めるのか、これが当面の課題です。
 

ルポルタージュ

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 7月22日(日)11時31分7秒
返信・引用
  ちょうどふた月前に、

  このところ3日ほど続けて不整脈が出て、もしかすると、カテーテルを入れて
  焼灼術というのをやるかも知れん。その時はそのルポルタージュを書きます

と書いたのですが、それを先日(17日)やりました。
ところが、手術室に入ると、知らぬ間に眠っていて、次に気がついたのは病室のベッドの上、いったいいつ、どこをどうされたのやら、本人はまったく知らないうちに、終わってしまいました。
幸い経過良く、この19日に退院しましたが、そういうわけで、ルポルタージュすべき内容が、完全空白。
うまくいけばこのまま不整脈とは縁が切れる、はずなのですが、そんなにうまくいくかどうか。
とりあえず「ルポルタージュ書けない」ことを投稿に及びました。


 

モグラ穴の不思議

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 6月 9日(土)09時29分48秒
返信・引用 編集済
   友人のKが『母の記録』というのを書いて見せてくれた。彼のお母さんはもう97歳で、最近少し認知症が進み、今春肺炎で入院したが、幸い回復して先月退院した。入院中、Kは見舞いに行って、枕元で一方的に話をする。お母さんも勝手に昔のことを話したり、だしぬけに歌を歌ったりする。歌は、「空にさえずる鳥の声」の天然の美とか、誰か故郷を思わざるとか、ふるさと播磨の民謡とか、と思うと突然、軍歌が出てきた。

   東洋平和のためならば
   なんで命が惜しかろう
   戦する身はかねてより
   死ぬる覚悟であるものを
   泣いてくれるな草の虫

 Kさんは昭和18年生まれだからナマの記憶はないだろうが、Kさん、それは「露営の歌」ですよ、と、ぼくは、すぐに、思い出した。ぼくは、も、すぐ、もない、おそらくもっとも有名な軍歌だ。

   勝って来るぞと勇ましく
   誓って故郷を出たからは
   …………

 少し前、何の本かもう忘れたが、次々に軍歌が出て来る箇所があって、驚いたことに、ぼくはその大半をその場ですらすらと歌うことができたのだ。幼児の記憶が定まるのがだいたい4、5歳頃、軍歌の終焉は昭和20年8月の10歳だから、わずか5、6年の間、小さな頭にしみこんだ大量の軍歌が、その後60年余、一度も思い出したことがないにもかかわらず、いまだに記憶に残っているとは、これはどういうことなのだろう。
 ここまで書いてぼくは、以前書いた「おはぎがお嫁に」を思い出した。モグラ穴はいくつあるのだろう。モグラ穴はどれ位深いのだろう。
 

老人性記憶症、又の名、モグラたたき症候群

 投稿者:(つね)  投稿日:2012年 6月 3日(日)11時46分2秒
返信・引用
  脳細胞の活性化とはとんでもない。小生はこれを「老人性記憶症」と名付けていますが、数十年前の記憶が唐突によみがえるが、「何をとりに行くんだっけ。」と階段の途中で考えなければならないように、数分前の記憶が定かでない状態です。
一度モグラ叩きでで出て来た記憶は、連鎖反応で次から次へとつながって行きますが、その中身は空気の一杯詰まった薄皮まんじゅう。数学で例えれば、公式を証明した記憶はあるが、どのようにして証明したか、の記憶は無い。
つまり、他人から見れば、何時も大きな事を言っている嫌みな老人、と云ったところ。
と云った訳で、今、学生時代にやった、複素関数、整数論を復習しています。殆ど忘れているので新鮮な気分で取り組めます。
amazonn. kindle で Times, Furankufurter Allgemaine 等の新聞の気がむいた処だけ読んでいますが、これがなかなか参考になります。福島の津波、原発、中国による欧米経済への影響、中国とインドネシア、フィリッピン等との領土問題等。それぞれの国の立場に立って考えなければならぬ事が、日本の政治家の勉強すべき処ではないでしょうか。
 

キャッと叫んでロクロっ首

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 5月30日(水)08時54分39秒
返信・引用
   高二の頃の日記が、もしあるとすれば、それは納戸の壁際のあのあたりを「掘れば」、みつかるかもしれない。しかしぼくは、もしあったとしても、それを見るのは、こわい。なぜなら、その頃のぼくは、生意気で、尊大で、傲慢で、青臭いことをいっぱい喋り散らし、書き散らしていたに違いないからだ。そういうものを今更になって垣間見るとは、(新)さんではないが、身を捩って消えてしまいたいほど、恥ずかしくて、とてもできない。というわけで、(つね)さんの連想は「実証」できなかった。ごめん。付言すると、ぼくには『出家とその弟子』について(つね)さんと話した記憶がまったくないのです。おそらく当時は倉田百三とか阿部次郎とか、誰彼なしに言っていたはずだ。(それにしても(つね)さんの連想は、すごい飛躍! 半病人に昇格して、脳細胞も活性化したのかな)
 

連想

 投稿者:(つね)  投稿日:2012年 5月25日(金)12時10分20秒
返信・引用
  (皓)さんの文を読んでいて、連想から、倉田百三『出家とその弟子』について(皓)さんと話した事が有るのを不意に思い出した。恐らく高校二年生の時だろう。何を話したかは全く覚えていないが、『出家と...』の思想はと百三の私生活とは全く違うのだ、と云う印象だけが残っている。『出家...』もあれから50年以上読んでいないので、中身も全く判らない。もっとも小生の読書は、”広く/浅く” なので、覚えていないのが当たり前。
(皓)さんなら読書日記も付けておられるでしょうから、話した日時/感想等も書いておられるのでは?
連想とは不思議なもの。 島尾敏雄ー庄野潤三ー住吉高校ー....と来て百三/(皓)さん、と来るのだから。
 

祝御半快!?

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 5月23日(水)15時03分26秒
返信・引用
  (つね)さんは「病に倒れ」から「半病人まで昇格」されたそうで、何はともあれ、よかったよかった。(新)さんも元気そうであったよし、何より。それにしても(つね)さんは8000歩も歩くなんて、それではぼくよりずっと達者ではないか!

だいたいぼくたちの考えることはもう、ほとんど昔話に尽きるが、先日、福井県に住んでいて近頃奥さんの介護で東京に移り住んだ古い友人がメールで、「だるまさんがころんだ」という話を書いてきた。ぼくは、大阪ではそうは云わない、「ぼんさんがへをこいた」と云うのだ、と教えてやった。しょうむない話だが、そういうのは案外長々と続く。

『島尾敏雄全集』を読んでいると、「野茶坊」という文章にぶつかった。「奄美伝説十一選」中のひとつ。待てよ、野茶坊というのは、聞いたことがあるぞ、ウム、あれは「さんさん花」で誰かが話題を提供したのではなかったか。探しました。ありました。2007年3月、(新)さんの投稿です。奄美の島唄で、三線の伴奏つきで当原ミツヨが歌うのを聞いたという。インターネットでも聞けるというので、探して、聞いた。そうだ、(新)さんは奄美大島へ行くとか行きたいとか言っていたのだが、行ったのだろうか。島尾の文章はかなりくわしく、大島の伝説のヤンチャ坊の野茶坊のことを、共感をこめて紹介している。しかしわれわれもずいぶんいろんなことをしゃべり合ったものだなあ。
 

(皓)さん と同じ

 投稿者:(つね)  投稿日:2012年 5月22日(火)11時56分47秒
返信・引用
  確かに小生は病に倒れ、最近やっと半病人まで昇格しました。然し、病人であろうと半病人であろうと、中学以来の付き合いに変更が有る訳でもなし、又、そうなって欲しくないので、お互い情報交換に努めましょう。
5月19日(土)、向井さんと会いました。日建設計OBの『そらいろ展』に向井さんが出展されているのでそれを見せて貰うのもあって、久し振りに元気な姿を拝見しました。
この日は、約8000歩。退院して2日後では100メートルも歩けなかったのと比較すると、大きな進歩。ただし歩く速さは今一歩と云ったところ。リハビリも雨が降ったら止め、寝起きが悪ければ止め、と、老人特有のマイペースです。
その内に一万歩でも普通に歩けるようになるだろう、と、楽観的に考えています。
 

散散会化を阻止しよう

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 5月19日(土)13時37分27秒
返信・引用
  (彡)さんと(つね)さんは病に倒れ、(新)さんと(皓)さんも半病人で、(昭)さんは寡黙だし、お姉様方は読んでるのか読んでへんのかわからんし、でも、燦燦会が散散会になるのは、断乎阻止したいね。
なかなか談論風発、丁々発止というふうにはいかないが、「ひとりごと」でもええやん。ぼくもこれからしっかり書きます。
と云いつつ、このところ3日ほど続けて不整脈が出て、もしかすると、カテーテルを入れて焼灼術というのをやるかも知れん。その時はそのルポルタージュを書きます。
 

野晒し紀行

 投稿者:(新)  投稿日:2012年 5月17日(木)20時05分39秒
返信・引用 編集済
  《野晒しを心に風のしむ身かな》    芭蕉


この句は昔、新幹線の車中のパネルに書かれていたのを見覚えている。
近頃「いい句だなぁ~」と、つくづく思う。

パソコンメールの添付写真は、何ヶ月かで自動消滅するらしい。確かにその方がいい。

東京都区内のさるお寺を覘いてみたら、
無縁墓の整理が進み、墓石がピラミッド風に積み上げられていた。
永代供養なんて出来ない相談のサンプルみたいな、これも野晒し風景。

我等が「さんさん花」
投稿しても野晒し状態が続き、いつの間にか【散散花】ではないか?

やはりこれも「限りある寿命」と云うのだろうか。
 
 

銀星囲碁12のこと

 投稿者:(新)  投稿日:2012年 4月16日(月)07時16分11秒
返信・引用
  (つね)さん
 僕はインターネットの囲碁対局のことは全く知りませんが、世界中の囲碁ファン同士が対局できるとか!言葉が通じなくとも碁が打てるとなるとスポーツ扱いするのも、分かるような気がしますね。

 パソコンを新しくした折に「銀星囲碁12」を付録のようにして購入しました。「四段で打たせて頂いています」と云うアレです。メチャ強くて《参ったマイッタ》手合いは小生が二目置いて連戦連敗です。初めの頃は中押し負けでしたが、近頃は6~15目負けで未だに片目も開いておりません。

 だから、僕の実力は初段位だと思わざるを得ません。人間だと思わぬエラーがあるから面白いのですが、ここまで確率計算でやられると白けてしまいそうです。舐められてしまうともう勝てませんから、嵌め手でも何でも一矢報いたいものだと思っています。

 近頃、視力が弱りました。Pc・Tv・囲碁は特に眼に来ます。囲碁の場合、一時間も盤面を見つめていると、盤面がぼやけたり小さく見えたりで、これも悩みの種なのです。
 

近況拝見等

 投稿者:(つね)  投稿日:2012年 4月15日(日)16時55分26秒
返信・引用
  お二方の近況を知り、ひとまず安心。(彡)さんの状況が気になります。

当方は、未だ自宅近辺を彷徊しているだけで、電車に乗って云々...は未だ未だです。

当方のパソコンも一台、小生に反抗して動かないのがあります。なまじっかパスワードを入れないと稼働しないように設定したのが間違いで、パソコンの正しい日付がパスワードの翻訳に必要... という事で、メーカーは電話では解決方法を教えてはくれましたが、それが上手く行かない時はどうするか...の回答は、”保証期間内なら郵送すれば、有料で直しますが、本件では保証期間が切れていますので対応出来ません” との事。 現在、1年半冬眠中。
ラップトップならパスワードが必要でしょうが、デスクトップでのパスワードの設定に関しては、個人所有の場合は熟慮要。

(新)さん  インターネットでの囲碁対局出来ますかね?
 小生、どうすれば出来るようになるのか、全く判りませんが、ご存知ですか?


 

(新)さん&パソコン

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 4月15日(日)10時12分13秒
返信・引用
  パソコンも本人も老化してくると、いろいろと煩いがたえません。
まあ、本人の経過観察がたいした問題なく経過しているようで、よかった。
文字化けは、ブラウザでエンコードをチェックしてみてはどうでしょう。
メニュー「表示」(メニューが出ていなければ Alt キーを押して表示させる)のなかに「エンコード」あり。
さて、写真の添付ですが、ぼくは何をすればよいのでしょうか。
先日はメール添付が成功して、ぼくは4枚受け取りましたが……。
最後に、ノルウエー製の素敵な「ストレスレス チエア」が、(新)さんのところで「ストレスレスレス チエア」に化けないことを祈ります。

水曜日、京都大阪の友人仲間と、昼食会のあと、西本願寺を拝観して来ました。飛雲閣など、ふだんは見れないので、よかった。この日午前中は、他の人たちは「渉成園(枳殻邸)」を見学したのですが、ぼくはそんな朝から一日動くのは自信がないので、パスして午後だけ参加したのです。西本願寺は京都駅から、近いといえば近いし、遠いといえば遠い、微妙な距離で、それだけ歩いて、うろうろして、腰が持つか、不安だったが、結果オーライだったのでほっとしています。この日は一日、雨。関東は大風とか、大変だったようですね。
 

近況報告(小生&パソコン)

 投稿者:(新)  投稿日:2012年 4月14日(土)06時21分42秒
返信・引用 編集済
  昨日、やっとの思いでコメントを打ち上げ、画像の添付作業をしていたら突然の暴発。アラビア語のような文字化け現象が現れてポシャってしまった。そういえば(皓)さんに教わったこの「さんさん花」のアドレスで開いた最初の画面にも中国語の様な文字化けを起こしていた。

さて、小生の日大病院における経過観察は近々二度目の診察に入りますが、常に両肩の鈍痛(五十肩の残党)?に加えて、首と肩こりがひどく、目の霞みなど…術後の後遺症?或いは単なる加齢現象でしょうか。

パソコンまで加齢現象でもあるまいに、ぐずぐずしています。
こちらは間違いなく小生の不適切な操作による後遺症的現象で、ストレスが溜まってきている事だと思います。八月には娘一家が帰省してきますので、その折にしっかり診断サポートして貰ってと心算しております。

今回は、先だっての燦燦会のスナップ写真を添付或いは挿入しようと思っていましたが、又爆発されては堪りませんので(滋賀)さんか(皓)さんに転載をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

予てより目を付けていたノルウエー製のeasy charを購入しました。これが「ストレスレス チエア」と云います。
                                                   (新)
 

お見舞いと報告

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 3月26日(月)16時22分43秒
返信・引用
  (つね)さんへ
病状概略を(新)さんから聞きましたが、メチャ悪いわけではなさそうなので、とりあえずは安心しました。
25日燦燦会は、いずれ(新)さんなり辻本君から詳報があると思いますが、これもとりあえず、盛会でした、山元先生ご夫妻もお元気でした、とお伝えしておきます。(出席=先生夫妻・辻本・向井・栄・木下・岩元・木島・山本計9名でした。)
リハビリは、あんまりがんばりすぎてもあかんみたいですよ。指示された質・量を、毎日規則正しくおこなうことが大切のようです。ぼくはかつてがんばって歩きすぎて、それで腰を痛めた。
寒い中や人混みをあるくとすぐ風邪をひく。そちらも気を付けてください。
その他もろもろの話題はまた改めて。
 

近況

 投稿者:(つね)  投稿日:2012年 3月25日(日)18時40分14秒
返信・引用
  小生、今回の燦々会、残念ながら欠席します。

2月17日(金)、東京に雪の舞った夜、風邪を引き、肺炎を併発して緊急入院、3月18日(日)に退院しました。
70歳を過ぎてからの入院は初めてですが、体力/手足の筋力の衰えは著しく、退院後3日間は自宅で基礎体力迄の回復に努め、4日後から外を歩き出しました。
初日は我が家から書斎迄約700メートルをやっとの思いで歩きました。
その日は書斎で仮眠後、唯帰宅しただけです。1週間経った今日は、スローペースですが、家から約400メートルの処に有る喫茶店で家内と昼食、その後書斎に着きましたが、初日と違って息を切らす事も無く、まずまずの回復です。
次の目標はは、歩く速度を少し上げる/歩く距離を1キロメートル位にする事です。
何時、並足/5キロメートルになるか判りませんが、その次の目標だと考えています。

燦々会にコロッケ御夫妻が参加されたら、よろしくお伝え下さい。
 

聖地巡礼

 投稿者:(彡)  投稿日:2012年 3月 1日(木)22時11分34秒
返信・引用
  燦燦会の場所は昭和町駅付近の「ちゃんこ雷光」にします。予算は5000円/人
www.chankoraikou.jp/

「燦燦会」の聖なる地?

(新)さん
少し早目に現地到着で、懐かしい場所を歩いてみませんか。
他のかたたちにも声をかけますが、つきあいます。
桃が池の桜が咲いていれば最高かも。

島田、石神両氏には案内状を送っておきます。
 

pc.eメールは回復しましたが、

 投稿者:(新)  投稿日:2012年 2月29日(水)00時19分49秒
返信・引用 編集済
  (彡)さん、救援ありがとうございました。
小生の方が古い機種なので合いませんでした。近所に住むIT活用コンサルタントに声を掛けたら直ぐに来てくれ、何とか交信出来るように修復してくれました。が、残念ながらアドレス集とメールの記録、保存ホルダーを持って行かれた(まるで津波を被った心境です)いつ又、余震が来ても不思議ではない程、ハードディスクが弱っているのかな?

とりあえずは交信できますので、みなさん!テストメールを下さい。メールアドレス集を
作成し直したいのです。今回遅れ馳せながら、バックアップ(フラッシュメモリー)を装填しました。

新しいPCにするかとつぶやいたら、今は「ipotですよ」と手持ちの品を見せられて《俺は浦島太郎だなぁ~》と、思ってしまった。二歳児でも扱えるというアレです。やっぱり俺は時代遅れ《好きな誰かを想い続ける男》でんな。無線も使わず、コードまみれになって、あれこれ手作業でやっております。

今回は盛大な燦燦会!暫らく振りだったし、先生ご夫妻や皓造さんともお会い出来るとは感動的です。
来月25日を楽しみにしております。では、おやすみなさい!

謝々(新)

 

カレンダー

 投稿者:(皓)  投稿日:2012年 2月28日(火)10時28分42秒
返信・引用
  3月。春ですねえ!
いつもメシを食ってからゆったりと腰をおろして薬を飲んだりテレビを見たりするソファがあって、その右横の壁にカレンダーが吊ってある。
3月の分には4つの予定が書きこんであり、そのうち1つは燦燦会だが、あとの3つは医者と病院だ。
あとは真っ白。
ただし3月15日までに確定申告をしなければいけない。西田辺の家土地を相続して売ったので、その関係。税務署は宇治まで行かねばならない。これがまた遠いのです。
うまく腰がなおってくれるとよいが。今日もまだよちよち。
昨日も病院の予約があったが、京都まで歩行・電車・バスと移動は苦しいので、キャンセルした。
でも25日は絶対大丈夫です。
 

テレパシー

 投稿者:(新)  投稿日:2012年 2月27日(月)12時14分22秒
返信・引用 編集済
  久し振りに「さんさん花」に色々書き込んでいたら、突然消えてしまった。どうも僕のPCは今、情緒不安定のようです(どうやら、outlookの一部が壊れたみたいです)(彡)さんの協力を得てメールが直るまでそ~っと、腫れ物扱いで接します。

島田・小野・横山(石神)の諸氏から《参加の可能性ありと》小生にテレパシーが届いて来るのですが…(新)
 

メール代用

 投稿者:(彡)  投稿日:2012年 2月27日(月)10時15分41秒
返信・引用
  (皓)さん・(つね)さんへ
  (新)さんのパソコンメールがトラブッています。修復されるまで当面「さんさん花」
  での交信になります。

「燦燦会大阪篇」
 島さん除き全員参加
 東京は(つね)さん未定、たぶん大丈夫。大島さんは少し無理かも。

 場所はこれから選定します。

 
 

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